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走り出した足が止まらない!

趣味とは、仕事に疲れた時の癒し、そして長い老後の最良の友。 いわば人生のオアシスである。(酒井正敬)

「神々の山嶺」の羽生丈二のモデル 『森田勝』の登山家人生について紹介!!

佐瀬稔著『狼は帰らず アルピニスト森田勝の生と死』を読む | ひつぞうとおサル妻の山旅日記

 

皆様は小説「神々の山嶺」をご存知でしょうか?

山岳小説の名著として数多くの人に愛されており、漫画化や映画化もした大人気作品です。

 

この小説の中に羽生丈二という孤高のクライマーが登場するのですが、この人物には実はモデルとなった実在の登山家がいます。

 

それが森田勝さんです。

 

今回は、山を愛し、そして山の魅力に憑りつかれて、最後は山でその生涯を終えた、森田勝という登山家の生涯を紹介します

 

 

森田勝の生い立ち

森田は、1937年12月19日に東京府北豊島郡(現在の東京都荒川区)にて、4人兄弟の長男として生まれました。

 

戦時中ということもあり、森田は貧困の中で幼少期を過ごすことになります。

 

小学生4年生の時には母親が亡くなってしまい、中学校を卒業は卒業せず、父親の下で金型工の見習いとして働き始めます。

 

その頃は日本山岳会によるマナスル登頂などによって、一般の人の間でも登山の人気が高まりつつありました。

 

森田もその影響を受けて登山を始め、徐々にのめり込んでいくことになります。

 

森田勝の登山家としての歩み

山岳会で登山の技術を磨く

次第に簡単な登山では物足りなくなった森田は、1959年に東京緑山岳会に入会し、本格的な登山に挑戦していくことになります。

 

週末になると、岩登りのために山に行き、年3回の合宿にも参加欠かさず参加していました。

 

しかし森田は仕事よりも山登りを優先する生活を送っており、「山に行くので1週間休ませてください」というお願いをすることも多かったそうです。

 

そんなこともあり、金型工としての腕はあったものの、なかなか職場に受け入れてもらうことができず仕事を転々とするこことなります。

 

多い時には年に6回から7回も職場が変わったこともあったそうです。

 

この頃の森田は20代半ばの最も脂が乗った時期であり、全てのエネルギーを山に注ぎ込んでいました。

 

仕事で得た金のほぼ全ては、山に行くための道具を購入することや、山への交通費に全て使っていきます。

 

そんな感じで森田はメキメキとクライミングの技術を上げていき、山岳会の中心メンバーとなっていきます。

 

前人未到の三スラの冬季登攀を成功させる

そして1966年、森田も30歳になろうかという頃、緑山岳会で海外遠征の計画が持ち上がります。

 

それは南米最高峰のアコンカグア(6960m)に登ろうというものでした。

アコンカグア』とはどんな山!?三浦雄一郎さんが挑む南米最高峰について紹介します!! - 走り出した足が止まらない!

 

もちろん森田もこの遠征への参加を熱望しましたが、南米に行くために必要な費用はとても高く、当時仕事を転々としていた森田の給料では到底払えるものではありませんでした。

 

森田はなんとか費用を工面しようとしましたが、森田に金を貸してくれる人はおらず、森田はアコンカグアに行くことを諦めざるをえませんでした。

 

しかし森田はアコンカグアに行けなかったことが相当悔しかったらしく、それへの当てつけのように、とんでもないクライミングを計画します。

 

それは、谷川岳の一の倉沢、滝沢第3スラブ、通称三スラの冬季登攀というものでした。

三スラ : モルゲンロート

 

このルートは、冬季は雪崩が頻発するため、登攀は不可能と見られていた超危険なものでした。難易度よりも危険度が勝っていたような場所です。

 

森田は、お金がなくてアコンカグアに行けなかった悔しさを晴らそうとして、三スラの計画を緑山岳会に提出しますが、あまりの危険さに当然却下されることになります。

 

しかし森田はその反対を押し切り、パートナーの岩沢英太郎と共に三スラに向かい、無事に冬季登攀を成功させます。

 

この三スラ冬季登攀成功は、森田の名前を登山界に知らしめることとなりましたが、無謀な挑戦をした森田に対し、所属していた緑山岳会からは脱会を言い渡されてしまいます。

 

ヨーロッパアルプス三大北壁への挑戦

山岳会を脱会し、個人として活動していくこととなった森田が次の目標に定めたのは、ヨーロッパアルプスの大岩壁でした。

 

それはマッターホルン、アイガー、グランドジョラスのアルプス三大北壁を一冬で登ってしまおうというとんでもない計画でした。

 

森田は必死に働いて旅費をためて、木村憲司ら若手クライマー4名とチームを組み、1969年からこの計画に挑みます。

 

しかし冬の三大北壁は甘くはなく、最初に挑んだアイガー北壁にて、パートナーの木村が頂上まであとわずか300m という地点で滑落してしまい左足を骨折してしまいます。

 

翌日に木村はヘリコプターで救出され病院に運ばれますが、残った森田たちは登山を続行し、日本人によるアイガー北壁登記所登坂に成功させます。

 

しかし、仲間が滑落事故にあった時点で登山をやめなかったことに対して批判があったことや、木村の救助と治療に膨大な費用がかかって金欠となってしまったことで、森田グループは残りのマッターホルンとグランドジョラスの登攀を諦めることになります。

 

その後森田は、1972年にアルパイン・ガイド協会に入会しプロの登山家となります。

 

エベレストへの挑戦

そして1973年、森田は第二次RCCのエベレスト南西壁登山隊に参加することになります。RCCとは山岳会の垣根を越えた、一般の登山団体とは異なる現役登山家による集団のことです。

 

これは、当時未踏であったエベレスト南西壁に挑戦するもので、森田はこの登攀チームの坂リーダーとなります、

エベレスト登山】「神々の山嶺」エベレスト南西壁冬季無酸素単独はどれほど難しいのか。│節約旅行.info

 

しかし途中で雪崩に巻き込まれて遭難者が出たうえに、天候も回復しなかったことから、目的であった南西壁からの登頂は困難となりました。

 

森田はあくまで南西壁からの登攀にこだわったものの、登山隊の中で意見が割れることになります。

 

登山隊は、ノーマルルートから登頂を目指すグループと、あくまで南西壁からの登攀を目指す森田のグループに分かれることになります。

 

ノーマルルートを進んだグループはなんとかエベレスト登頂に成功しますが、森田隊は当時の南西壁ルートの最高到達点であった8,350 m地点まで到達したところで、酸素ボンベが足りなくなり続行が困難となったため、南西壁の登攀を断念することとなりました。

 

強すぎる登山への情熱とK2挑戦

エベレストから戻った森田は、1974年に以前から交際をしていた女性と結婚し、子どもも授かります。

 

山岳ガイドの仕事も続け、安定した生活を過ごしていた森田でしたが、やはり山への情熱は衰えていませんでした。

 

1977年に日本山岳協会がによるK2登山隊に参加します。K2の標高は8611mで世界第2位の高さを誇る高峰です。

標高8600m、K2の頂をドローンが撮った

 

森田はこのK2登山を、世界の高峰への最後の挑戦と意気込んで臨みました。

 

そして山頂手前の第5キャンプにて登頂隊のメンバーが発表されるのですが、森田は最初に登頂を目指す第1次アタック隊ではなく、後続の第2次アタック隊にまわされてしまいます。

 

あくまでも1番隊での登頂にこだわっていた森田は、その選考に不満を持ち、勝手に隊を離脱して下山してしまいます。

 

登山の途中では、率先して他の隊員より重い荷物を運んだり、ルート工作に力を入れていたりと、協調性が無いわけではなかったものの、森田は登頂という点についてはどうしても我が強すぎたようです。

 

ライバル長谷川とのグランドジョラス初登攀を賭けた戦い

k2から戻った後の森田は、本格的な登山からは離れて、山岳ガイドや登山学校などという形で大好きな山と関わりを持ち続けていきます。

 

しかしあるニュースが森田を再び山の世界に連れ戻します。

 

それは1978年に長谷川恒男が冬季アイガー北壁単独初登攀に成功したというニュースでした。

 

長谷川恒男は森田より10歳下だったもの、天才的クライマーとして名を馳せており、そんな長谷川を森田はライバル視していた節があります。

 

長谷川はマッターホルン北壁にも冬季単独登攀しており、あとはグランドジョラス北壁の登攀に成功すれば、世界初のアルプス三大北壁冬季単独登攀の偉業を達成するところまで来ていました。

 

長谷川には絶対に先を越されたくないというライバル心からなのか、森田はなんとか旅費を工面して、グランドジョラス北壁の冬季単独初登攀を狙いヨーロッパに向かいます。

グランド・ジョラス山とは - コトバンク

 

1979年、グランドジョラス北壁の登攀を開始する森田でしたが、悪天候に阻まれ最初のアタックを失敗してしまいます。

 

そして再度のアタックの最中、休憩中にフックが外れ、森田は50メートル下まで落下してしまいました。

 

森田は墜落の衝撃で宙づりのまま意識不明になりますが、4時間後、全身襲う激痛で目を覚ますことになります。左足は骨折、胸部は打撲、左腕は動かず、ピッケル、アイゼン、手袋も失っていました。

 

しかし森田は驚異的な精神力で決死の登攀を再開し、右手と右足、そして歯を使って少しずつ登り続け、6時間かけてなんとか荷物のあった地点に戻る事ができました。

 

森田は、翌日にフランス陸軍の山岳警備隊に、ヘリコプターによって救助され、一命をとりとめることができました。

 

ただ、その数日後に、長谷川はグランドジョラスの単独登攀を成功させ、世界初の三大北壁冬季単独登攀の栄光を掴み取ることとなり、長谷川をライバル視していた森田は悔しい思いをすることになります。

 

森田の最後の挑戦

それでもやはり山への情熱が薄れることが無かった森田は、1980年の冬に登山学校の生徒である村上とパートナーを組んで、再びグランドジョラス北壁登攀に挑みます。

 

すでにグランドジョラスは長谷川によって登攀されており、森田が登攀することで得られる名声は何もありませんでした。

 

しかしやはり森田にとって、長谷川との初登攀争いに敗れたことがとても悔しかったのでしょう。

 

この時点で42歳であった森田は、今ここでグランドジョラスに登っておかないと、残りの人生をずっと悔しい思いのまま過ごすことになると考えていたのかもしれません。

 

森田は引き留める家族を振り切ってグランドジョラス北壁に向かいました。

 

森田と村上は登攀を開始し、頂上まであと400mの地点にまで到達していました。しかし森田は再びグランドジョラスの壁にぶつかります。

 

そして前回は奇跡的な生還を果たした森田でしたが、2回目は奇跡は起こりませんでした。

 

森田と村上は一時行方不明となり、その後グランドジョラス北壁の取り付き付近にて、墜落死している森田とと村上の遺体が発見されたのです。

 

およそ800mを墜落し、即死したものと思われるのですが、2人とも死亡していたため、一体何が起きたのかは知る由もありません。

 

こうして山に情熱を燃やし続けた森田勝という男の戦いが幕を閉じたのでした。

 

 

 

森田勝に関連した著書

森田勝に関連した書籍を2冊紹介します。

 

 

 

 

おわりに

森田勝という登山家の生涯を紹介してきましたが、いかがでしたでしょうか?

 

山をとことん愛し、無謀と思える登攀にも挑み続けた不器用な男の生き様に胸が熱くなりますね。これだけ人生を賭けられるものに出会えた森田勝は、本当に幸せな人生を送ったのだと思います。

 

私も人生を賭けて挑める何かと出会ったみたいと思わせてくれる、印象深い人生譚でした。

 

 

 

本日も拙いブログを読んで頂きありがとうございました!!!Have a nice run!