こんにちは!ブログ主のみつおです。
先日のニュースで平出和也さんと中島健郎さんがK2の未踏ルートを登っている途中で滑落してしまい、救助が断念されたというニュースが流れてきました。
お二人とも登山界に多大な功績を残してこられた方々なので、彼らの死を悼むとともに心よりご冥福をお祈り致します。
以前平出和也さんについては記事にして紹介させて頂いていました。
まだ中島建郎さんについては紹介したことがありませんでしたので、中島さんの功績を多くの人に知ってもらうために、今回は中島建郎さんの生涯について解説していきたいと思います。
中島健郎さんが登山を始めるまで
中島健郎(なかじまけんろう)さんは日本の登山家であり、山岳ガイドやカメラマンとして活躍しました。麦わら帽子がトレードマークであり笑顔が素敵なお方です。
中島さんは1984年に奈良県高取町で生まれました。
幼いころに父親に連れられて地元の里山で山登りをすることが多く、その経験が中島さんの原点であり、それがきっかけで自然が好きになって、のちに登山家になるにあたり大きな影響を受けたそうです。
ただまだ幼いうちに父親を亡くなってしまい、奈良から大阪や滋賀に引っ越すことになりますが、母親は不慣れながらも中島さんを山に連れていってくれたそうです。
しかし周囲には本格的に登山をする人はおらず、高校には山岳部も無かったため、自分の意思で山に登るようになったのは、大学に入ってからだそうです。
中島さんは2002年に関西学院大学理工学部に進学し山岳部に入部しました。この山岳部で登山の基礎を学ぶことになります。
中島建郎さんの登山家としての歩み
大学の山岳部で未踏峰を踏破
大学の山岳部は人数は少なかったものの、関西には大西保さんや奥田仁一といった登山家の先輩がおり、そのような方々と交流する中で中島さんは登山の技術や知識を吸収していきました。
大西さんが代表を務めていた「大阪山の会」と一緒に登山をしたことで、多くのことを学んだそうです。
そのような交流をしていく過程で未踏峰のことについてもたくさん教わったそうで、中島さんが挑戦できそうな未踏峰についての情報を得ていくことになります。
学内・学外の活動を経て、在学中の2006年にネパールの未踏峰であった パンバリヒマール(6887m)に登頂を果たしました!
パンバリヒマールには国立登山研修所で一緒に講習を受けた仲間達と挑戦したそうです。大学も居住地もバラバラでしたが、何度も講習で会う中で計画を練っていったそうです。こうして学外でも登山の輪を広げていきます。
そして次は関西学院大学の山岳部の部員たちだけで登ってみようということで2007年には再びネパールヒマラヤに偵察目的で登山に行き、収穫を得て帰ってきます。
そして2008年に、山岳部の2年後輩の山本大貴さんとともに再びヒマラヤに訪れ、ネパールの未踏峰であるディンジュンリ(6196m)を踏破することに成功したのです。
大学在学中に3度海外遠征を経験し、そのうちの2回で未踏峰を踏破するなんてものすごいですね!仲間にも恵まれた素晴らしい大学生活を過ごされたそうです!
大学時代の歩み
・2002年に関西学院大学理工学部に進学し山岳部に入部
・2006年にネパールの未踏峰であった パンバリヒマール(6887m)に登頂
・2007年には再びネパールヒマラヤに偵察目的で登山
・2008年に山本大貴さんとともにネパールの未踏峰であるディンジュンリ(6196m)を踏破
大学を卒業後、山岳ガイドや山岳カメラマンとしての活動を始める
中島さんは2008年に大学を卒業後、WECウェック・トレックに所属します。
ウェック・トレックは山岳地域の旅行や登山の企画、取材や撮影などのコーディネートやコンサルタントをしている会社です。
中島さんは山岳部の時にウェック・トレックから衛星電話を借りたりしており、その時にウェック・トレックのウェブサイトを見たら社員を募集していたので応募したとのこです。
ウェック・トレックに所属し、海外の高峰の山岳ガイドを務めながら、海外山岳・辺境地域における過酷な環境下での山岳カメラマンとしての活動をスタートしました。
自分が登るのではなく他社を撮影する仕事を通じて、中島さんは登山家が色んな発想、アイディアで山に登っていることが興味深いと感じたそうです。そしてそんな彼らの登山を支える仕事を面白いと思っていたそうです。
また個人でも世界の名峰を踏破していきます。
「世界の果てまでイッテQ」などのメディア出演
中島さんは山岳ガイドとカメラマンとして活動する中で、メディアでの露出も増えていきます。
2012年に竹内洋岳さんの8,000m峰14座完登にカメラマンとして同行した際の挑戦の模様は、NHKのTV番組『世界の名峰グレートサミッツ』および『NHKスペシャル』にて放映されました。
竹内洋岳からの信頼は厚く、チョ・オユー(8,188m)やダウラギリ(8,167m)等、竹内さんの数々の挑戦にパートナー兼カメラマンとして同行しました。
また2012年以降は「世界の果てまでイッテQ」の登山シリーズにカメラマンとして参加するようになりました。
イモトアヤコさんのマッターホルン(4,478m、2012年)、マナスル(8,163m、2013年)、マッキンリー(6,168m、2015年)、ヴィンソン・マシフ(4,892m、2018年)への挑戦を、ガイド兼カメラマンとして支え続けました。
平出和也さんとつかみとった2度のピオレドール賞
個人としてもチームとしても様々な山に登っていき経験を積んだ中島さんは、登山家の平出和也さんとチームを組み、2014年のカカポラジ北稜(5881m、ミャンマー)以来、数々の登攀を共にしてきました。
そして中島さんと平出さんは、2017年にシスパーレ(7,611m、パキスタン) の北東壁の未踏ルートに挑戦し、見事踏破を果たしました。
そして2人はこの偉大な功績が讃えられ、優秀な登山家に贈られるピオレドール賞を受賞しました。
また2019年に中島さんと平出さんはラカポシ(7,788m、パキスタン)の南壁の未踏ル-トからの登頂にも成功し、2度目のピオレドール賞を受賞します。
こうして中島さんは登山家としても山岳カメラマンとしても世界から認めれる存在となったのです。
中島健郎さんの最期
その後も世界の高峰に挑戦し続けた中島さんを悲劇が襲いました。
2024年7月に、中島さんは平出さんとともにK2(8,611m、パキスタン)に登攀します。エベレストに次ぐ世界第2位の高さになっているため、難易度はかなり高い山です。
最初は順調に進んでいたようですが、標高約7,500m付近で2人は滑落してしまいました。氷とともに1000メートル以上滑落したところを、現場スタッフが目視で確認したとのことです。
その後、救助ヘリが来て2人を6,300m付近で発見したのですが、そこは標高が高く接近が困難な場所であったため、ヘリは着地できなかったようです。
そして発見後2人に動きもなかったことと、ヘリが着陸できないこと、上部に崩落の可能性があるセラックがあって二重遭難の恐れもあることなどから、家族の同意により救助活動は打ち切られ、その後遭難による死亡と見解が示されました。
中島さんの山と共に走りぬいてきた39年の生涯はここで幕を閉じたのでした。
中島さんの登山家としての歩み
・2002年:関西学院大学理工学部に進学し山岳部に入部
・2006年:ネパールの未踏峰であった パンバリヒマール(6887m)に登頂
・2007年:再びネパールヒマラヤに偵察目的で登山
・2008年:山本大貴さんとともにネパールの未踏峰であるディンジュンリ(6196m)を踏破
・2008年:関西学院大学卒業。卒業後はWECトレックに所属
・2009年:マッターホルン(4,478m、スイス)単独登頂
・2011年:チョ・オユー(8,188m、パキスタン)登頂 、竹内洋岳さんと共に
・2012年:ダウラギリ(8,167m、ネパール)に同行、竹内洋岳さんと共に
・2012年:マッターホルン(4,478m、スイス)登頂、イッテQ!
・2013年:マナスル(8,163m、ネパール)ガイド登頂、イッテQ!
・2015年:マッキンリー(6,168m、アメリカ)登頂、イッテQ!
・2015年:アピ(7,132m、ネパール)登頂、平出和也さんと共に
・2017年:シスパーレ(7,611m、パキスタン) の北東壁の未踏ルート踏破、平出和也さんと共に、ピオレドール賞受賞
・2018年:エベレスト北稜(8,848m/チベット)登頂
・2019年:ラカポシ(7,788m、パキスタン)の南壁の未踏ル-トからの登頂、平出和也さんと共に、ピオレドール賞受賞
・2022年:カールンコー北西壁(6,977m、パキスタン)初登攀、平出和也さんと共に
・2024年:K2登攀中に滑落
中島建郎さんに関連のある書籍
2024年9月に平出和也・中島健郎の挑戦の生涯を振り返る書籍が発売されました。K2挑戦の意味と2人が遺してきた記録をたどるものとなります。
おわりに
中島健郎さんはK2での滑落により帰らぬ人となってしまわれました。
しかし、多くの人の登山と山岳ガイド・山岳カメラマンとして支え続け、またピオレドールを2度も受賞するなど輝かしい実績を残しており、その功績は誰もが認める素晴らしいものでした。
誰かの登山を支え、そして自身も山へ挑戦し続けた中島さんの誰よりも熱い生涯をいつまでも忘れずにいたいと思います。
本日も拙いブログを読んで頂きありがとうございました!!!Have a nice run!