登山は時には山仲間と登ったり、時にはソロで登ったり、いろいろな構成で楽しむことができる自由度の高いスポーツだと思っています。
またより安全性や深い知識を求めて山岳ガイドのいるツアーに参加する場合もあるかと思います。時折見かける10人以上の団体を華麗に引っ張るガイドさんは本当にカッコイイですし、大変なんだろうなあと思いますね。
そして日本には9回もガイドとしてチームをエベレストの頂きに到達させてきた最強の山岳ガイドがいることをご存知でしょうか?
今回はこれまで何人もの人々を世界の頂点に導いてきた最高に頼れる山岳ガイド、倉岡裕之(くらおかひろゆき)さんの人生を紹介します!
倉岡裕之さんの幼少期
倉岡裕之(くらおかひろゆき)さんは1961年8月3日に東京都に生まれました。2023年2月時点で61歳です。
その後千葉県我孫子市に引っ越し、我孫子市の小中学校に通います。
小学5年生の時に本屋さんの店先で見かけた「登山入門」という雑誌に載っていたロッククライミングの写真に心を奪われて、それで登山家としての人生が決まったと振り返っています。
その雑誌の表紙の写真の衝撃が忘れられず、中学にあがってからも山の本や雑誌を読み漁ったそうです。
中学2年生の時に母親が昔ハイキングをやっていた時に使用していたキャラバンシューズをもらい、神奈川の丹沢に2泊3日の単独登山に行ったのをきっかけに登山にのめりこんでいきます。
その後も一人で筑波山にクライミングしたりと独学で登山の実力をつけていきました。
高校進学後は、高校に山岳部がなかったため、毎日近くの手賀沼で10kmタイムトライアルを行って身体を鍛えました。
そして大学進学後に本格的に登山の世界に足を踏み入れていくことになります。
倉岡裕之さん登山家としての歩み
大学進学後本格的な登山の世界に
明治大学に進学後、倉岡さんは倉岡さんは山岳部に入部します。その際に明治大学OBの植村直己さんが冬のエベレストへ行くという話を聞き、連れていってほしいと直訴するものの断られたそうです。
倉岡さんはさらなるレベルアップを目指し、当時流行り始めていた社会人の山岳会に入会します。
それが日本で1,2を争うような山岳会であった『登攀クラブ蒼氷』です。
蒼氷では、真冬の富士山に装備も荷物も軽量化して泊まらずにパッと行って帰ってくるなどしており、ここで大学の山岳部とは発想の違う登山を経験したそうです。
蒼氷の活動のため大学へはほとんど行かず、ずっと山の中にいたそうで、大学は7年間の在学後に除籍になりました。
ただ蒼氷の活動を通じて、安全確保の方法や、パーティ登山の心得など学んでいき、確実に登山家としてのレベルと、山岳ガイドとしての素地を磨いていきます。
そして1983年(22歳)には、ネパールで初めてのヒマラヤ登山を体験します。
翌1984年(23歳)には、登山家の木本哲らとともに南米のギアナ高地に世界最大級の滝であるエンゼルフォール(1,283m)を未踏ルートで初登攀に成功しました。
エンゼルフォールは東京タワー3本分の1000mもある滝です。常人には考えられないですね笑
映画『植村直己』物語への参加
エンゼルフォールの登攀はテレビの企画にクライマーとして参加したものでだったのですが、その際に同行していたカメラマンに山岳カメラマンとして有名な阿久津悦夫さんがいました。
その阿久津さんから山岳映画の撮影があると誘われます。それは前年の1984年にマッキンリーで消息不明になった植村直己さんの捜索も兼ねてというもうのでした。
倉岡さんは阿久津さんの誘いをOKし、1985年(25歳)の2月から4ヶ月間、映画『植村直己物語(主演:西田敏行)』の撮影スタッフとしてマッキンリー登頂に同行しました。
倉岡さんはマイナス50度以下という過酷な環境の中でも短パン・Tシャツという鉄人ぶりを発揮していたそうです。
同年の10月にはエベレストでの撮影にも参加します。
撮影隊と登頂隊に分かれており、倉岡さんは撮影と俳優さんたちのお世話をする撮影隊として活動していました。
主演の西田敏行さんたちが、5000m以上の高地でも身体を順応させてセリフを覚えて演技する姿にプロフェッショナルを感じたそうです。
しかしエベレストからの帰国後、クライミングの懸垂下降時に事故で大怪我を負い、しばらくクライミングから遠ざかることになります。
登山家、山岳ガイドとしての活動
20代の頃、倉岡さんは山専門の旅行会社に勤めており、ガイドとしての登山も数多くこなしていましたが、クライミングからで大怪我を負ったことから、ロッククライミングからは一時離れて、25歳(1986年)の頃から山岳ガイドの仕事を本格的に始めます。
実は初めてガイドをしたのは、20歳の時に文部省の登山研修にて講師に欠員が出た際に声をかけられ、宝剣岳に気象担当として同行したのがスタートのようですね。
それでもガイドの仕事と並行して高峰登山にも挑戦していきます。
1987年(26歳)にキリマンジャロ(5,895m:タンザニア)、1989年(28歳)にエルブルース(5,642m:ロシア)、1991年(30歳)にアコンカグア(6,960m:アルゼンチン)に登頂します。
1996年(35歳)からヒマラヤの高峰での仕事も始めます。
そしてついに2003年(42歳)から8000m峰でのガイドの仕事が本格化していきます。
8000m峰の山岳ガイドデビューは2003年(42歳)の時に、世界6位のチョ・オユー(8,201m:チベット)です。ラッセルブライス率いるヒマラヤン・エクスペリエンスに、田村真司と共にガイドとして参加しました。
翌2004年(43歳)の時には、初めてエベレスト(8,848m:チベット)にガイド登頂します。これ以後、倉岡さんは合計9回のエベレスト登頂を果たすことになります。
2005年(44歳)には南極大陸のヴィンソン・マシフ(4,897m)、2006年(45歳)の時には、ニューギニア島のカルステンツ・ピラミッド(4,884m)に登頂し、七大陸最高峰登頂を達成しました。これは日本人11人目、世界では170人目の偉業です。
高倉さんの主な登山歴について一覧にて紹介していきます。
・1984年(23歳):エンゼルフォール(1,283m:ギアナ)を登攀
・1985年(24歳):マッキンリー(6,194m:アメリカ)に植村直己物語の撮影隊として参加し、登頂。エベレスト登山にも参加
・1987年(26歳):キリマンジャロ(5,895m:タンザニア)に登頂
・1989年(28歳):エルブルース(5,642m:ロシア)に登頂
・1991年(30歳):アコンカグア(6,960m:アルゼンチン)に登頂
・2003年(42歳):チョ・オユー(8,201m:チベット)にガイド登頂
・2004年(43歳):エベレスト(8,848m:チベット)にガイド登頂。1回目
・2005年(44歳):ヴィンソン・マシフ(4,897m:南極大陸)にガイド登頂
・2006年(45歳):カルステンツ・ピラミッド(5,030m:インドネシア)にガイド登頂。七大陸最高峰登頂
・2006年(45歳):チョ・オユー(8,201m:チベット)にガイド登頂
・2007年(46歳):エベレスト(8,848m:チベット)にガイド登頂。2回目
・2008年(47歳):マナスル(8,163m:ネパール)にガイド登頂。
・2009年(48歳):エベレスト(8,848m/ネパール)にガイド登頂。3回目
・2009年(48歳):マナスル(8,163m:ネパール)に登頂。
・2010年(49歳):エベレスト(8,848m:ネパール)にガイド登頂。4回目
・2010年(49歳):カメット(7,760m:インド)にガイド登頂。
・2011年(50歳):エベレスト(8,848m:ネパール)にガイド登頂。5回目
・2013年(52歳):エベレスト(8,848m:ネパール)にガイド登頂。6回目。このときガイドをしたプロスキーヤーの三浦雄一郎はエベレスト登頂世界最高齢記録更新(80歳223日)。
・2013年(52歳):マナスル(8,163m:ネパール)にガイド登頂。
・2016年(55歳):エベレスト(8,848m:チベット)にガイド登頂。7回目
・2017年(56歳):エベレスト(8,848m:チベット)にガイド登頂。8回目
・2018年(57歳):エベレスト(8,848m:チベット)にガイド登頂。9回目
・2018年(57歳):日本テレビ「世界の果てまでイッテQ!」において、イモトアヤコ「イッテQ!登山部」南極大陸最高峰ヴィンソン・マシフ登山企画に参加し登頂に成功
・2019年(58歳):三浦雄一郎のアコンカグア遠征に参加
一覧には書き切れていませんが、エベレスト9回、チョ・オユー3回、マナスル4回、エルブルース10回以上、マッキンリー5回、アコンカグア14回、ヴィンソン・マシフ7回、キリマンジャロ3回、カルステンツ・ピラミッド7回、そのほとんどをガイドとして登頂しています。
エベレスト登頂9回は、日本人エベレスト最多登頂記録です。
しかも今まで一度も死亡事故を起こしていないのは、まさに世界最高峰の山岳ガイドと言えるでしょう!
倉岡裕之さんのことをよく知るには
倉岡さんは書籍の出版をしておりませんが、『ほぼ日刊イトイ新聞』の合計9回のインタビュー記事が公開されています。
このインタビューを読めば、倉岡さんの豪快で物怖じしないお人柄が伝わってくると思います!
またこちらは倉岡さんが活動報告をしている公式サイトになります。2021年が最後の更新となっていますが、これからのご活躍にも期待したいですね。
おわりに
今回は9度もエベレストを登頂した最強の山岳ガイド、倉岡裕之さんの紹介をしましたがいかがでしたでしょうか?
倉岡さんのガイドのモットーは「帰国翌日に社会復帰」とのことです。ガイドする人がをいかに安全に、いかに消耗が少ない状態で無事に帰還させることを第一に考えているのだと思います。
またいつの日か、倉岡さんが誰かを世界の頂きに導いてくれる日が来てほしいですね!!
本日も拙いブログを読んで頂きありがとうございました!!!Have a nice run!