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走り出した足が止まらない!

趣味とは、仕事に疲れた時の癒し、そして長い老後の最良の友。 いわば人生のオアシスである。(酒井正敬)

マラソンの距離が42.195kmになった理由は「青年兵士の疾走」と「女王様のわがまま」にあった!?

陸上競技はとてもメジャーなスポーツであり、マラソンもその一つであるでしょう。


箱根駅伝やオリンピックのマラソンを欠かさず見る人も多いのではないでしょうか。

 

また近年ではマラソンブームも相まって、フルマラソンの大会に出る人も増えてきており、マラソンはとても身近なスポーツになったといえますね。

 

しかし皆様は、このマラソンという競技が生まれることになったきっかけが、ギリシアにおいて過去に起こった一つの戦いであることをご存じでしょうか?

 

今回はマラソンの起源となった戦いと、なぜマラソンの距離が42.195kmになったのかについて解説していきます!

 

 

 

マラソンの起源となった「マラトンの戦い」

時は紀元前490年に遡ります。


戦いの舞台となったのは、ギリシアのアッティカ半島東部のマラトンという地です。この地で起きた「マラトンの戦いが、後のマラソンという競技に繋がっていきます。

マラトンの戦い - Wikipedia

 

当時、オリエント世界を統一したアケメネス朝ペルシアの軍勢は、ギリシア世界へと侵攻を仕掛けてきていました。

 

それに対するギリシア側は、アテナイ・プラタイア連合軍で迎え撃つことになります。

 

しかしペルシア軍の勢いはすさまじく、ギリシアの領土の島々を次々と攻略され、怒涛の勢いで本土へと迫ってきていました。

 

ペルシアの侵攻を食い止める為に、アテナイは連合軍をマラトンへと派遣し、同時に最強の陸軍を有するスパルタにも援軍の派遣を要請しました。

 

しかしペルシア軍の兵数2万に対し、アテナイ連合軍は1万人にも満たず、兵力差は誰の目にも明らかでした。

 

スパルタからの援軍が到着するのを待つという選択肢もありましたが、アテナイ軍内部から裏切り者が出て軍が崩壊することを恐れた指揮官の意見により、アテナイ軍はペルシアの大部隊に寡兵で戦いを挑んでいくことになります。

 

もちろん倍近い兵力差があったため、真っ向勝負では分が悪いと理解していた指揮官は、ペルシア軍の予想を超えた奇襲戦を仕掛けます。

 

アテナイ軍の戦略といえば、盾と長槍で武装した縦走歩兵が密集陣形を築いて敵を蹂躙していくファランクスという陣形がメインでした。

ファランクスのイラスト

 

ただこの陣形は型にはまれば制圧力は高かったものの、密集陣形ゆえに機動力を欠くものであり、敵からの弓矢の一斉射撃に対して弱さを露呈する陣形でもありました。

 

それが分かっていたペルシア軍は、アテナイ軍がファランクス陣形で自分たちの弓矢の射程圏内に入ってくるまでおびき寄せる戦法をとります。

 

そしてアテナイ軍が弓矢が届く範囲まで近づいてきたところでペルシア軍は弓兵の一斉射撃を開始したのですが、次の瞬間ペルシア軍が目を疑うような事が起きます。

 

なんとペルシア軍が矢を放つと同時に、アテナイ軍はファランクスの陣形を解き、ペルシア軍の隊列に向かって全力で走り始めたのです。

偶然おきた包囲殲滅戦はありますか? - Quora

 

これこそがアテナイ軍が仕掛けた奇襲でした。攻撃は最大の防御と言った感じでペルシア軍の弓矢をかいくぐり敵陣へと突撃していきました。

 

弓兵というのは接近戦に弱いため、近づけば近づくほど矢による被害は小さくなります。

 

加えて、まさかアテナイ軍がファランクス陣形を捨てるはずがないというペルシア軍の考えの裏をかいたことにより、ペルシア軍は一気に殲滅され、アテナイ連合軍が劇的な勝利を収めたのです。

 

マラトンの戦いの勝利が生んだマラソン伝説

このマラトンの戦いのアテナイの勝利は、後のマラソン競技に繋がるとある伝説を残します。

 

アテナイ軍の兵士であった青年は、一刻も早くアテナイ軍の勝利を祖国に伝える為に、完全武装のままマラトンの戦場からアテナイまで走り続けました

 

マラトンからアテナイまでの約40kmを走り抜いた青年は、「わが軍勝利せり!」と叫ぶと、その場で倒れて絶命してしまいました。

 

この話は後世の創作ではないかとも言われていますが、この伝説をもとにして、1896年の第1回近代オリンピックにおいて、アテナイ-マラトン間の約40kmの走行競技が行われました。

 

そしてこれが後のマラソン競技となったのです。

 

 

 

マラソンの42.195kmはどうやって決められた?

マラトンの戦いの勝利を報告するために青年が走った距離は約40kmという曖昧なものでした。

 

そして第1回近代オリンピックでマラソンが始まった以降も、しばらくの間は「約40km」という曖昧なルールで実施されており、大会によって走る距離が微妙に異なっていました。

 

現在のマラソン競技の42.195kmという距離で初めてマラソンが実施されたのは、1908年の第4回ロンドンオリンピックになります。

 

当初ロンドン大会におけるマラソン競技の距離は、ウィンザー城からホワイトシティスタジアムまで41.843キロが予定されていました。

 

しかし当時のイギリス女王のアレクサンドラは、「スタート地点は城の窓から見えるように宮殿の庭に、ゴール地点は競技場にあるボックス席の前に設置してほしい」と要求し、コースを微調整することとなりました。

 

この女王の注文によってコースが変更され、距離が少し伸びて42.195kmになったといわれています。

 

その後の大会はまた距離は微妙に変わるものの、1924年の第8回パリオリンピックからマラソンの距離が固定されることになり、公式競技距離としてロンドンオリンピックの時の42.195kmが採用されることとなったのです。

 

 

 

おわりに

マラソン競技の起源と、42.195kmという距離の由来について解説してきましたがいかがでしたでしょうか?

 

マラソンの起源が1人の青年兵士の命を賭けた疾走と、女王様のわがままにあると思うと、マラソンにも歴史あり感じてしまいますね。

 

ただ走るだけと思うこと無かれ、マラソンという競技の逸話を知ることで、また違った視点でマラソンを楽しむことができるのではないでしょうか!

 

 

 

本日も拙いブログを読んで頂きありがとうございました!!!Have a nice run!