皆様は何か挑戦していることはあるでしょうか?
生きていれば大なり小なり皆それぞれ何か目標を持って、それに向かって進み続けていることだと思います。
それが毎日ウォーキングするというものなのか、はたまた命懸けの登山を成功させるというものなのかは人それぞれでしょう。
そんな中でも登山家という人達は、常人には達成困難な目標をたて、命懸けで高峰に挑んでいき、その浮世離れした生き様は観る人全ての心を魅了するしてしまいます。
しかし中には、目標を達成することができず、夢半ばでその生涯を終えてしまう人もいます。
今回は、世界最高峰のエベレスト登頂に8回挑戦して8回とも失敗し、最後はエベレストで滑落死してしまった栗城史多(くりきのぶかず)氏の生涯について解説していきます。
栗城氏の来歴
栗城氏は1982年に北海道瀬棚郡今金町で生まれました。
高校卒業後は、なんとお笑いタレントを目指して上京し、吉本興業が運営する芸人養成所であるよしもとNSC東京校に入学しますが、これを中退し、2002年には札幌国際大学に入学します。
そして大学の山岳部に入部し本格的に登山を開始することになります。ちなみに登山を始めたきっかけは、その時付き合っていた彼女の影響のようです。
大学では、雪山縦走などを経験し、登山の実力を磨いていきます。
栗城氏の登山家としての歩み
7大陸最高峰のうち、6大陸最高峰に登頂に成功
栗城氏は2004年、単独で北米最高峰であるマッキンリー(現デナリ)に挑戦をします。ちなみに栗城氏はこれが初めての海外であったそうです。
この時の栗城氏の登山歴はまだわずか2年でした。
冬季ではないとはいえ標高6194mの超高峰を簡単に登れるがはずがないと周囲の人間は心配しますが、栗城氏はそんな周囲の心配をよそに、マッキンリー単独登頂を成功させます。
そして翌年の2005年、栗城氏は南米最高峰のアコンカグア(6962m)、ヨーロッパ最高峰のエルブルース(5642m)、アフリカ最高峰のキリマンジャロ(5895m)の登頂に成功します。
さらに2006年にはオセアニア最高峰のカルステンツ・ピラミッド(4884m)、2007年には初めてのヒマラヤ登山でチョ・オユー(8201m)、南極最高峰のビンソンマシフにも登頂を果たました。
これにより、栗城氏は7大陸最高峰のうち、6大陸最高峰に登頂に成功しており、残すは世界最高峰のエベレストだけという状況になります。
エベレスト挑戦に向けて実績と経験を積むため栗城氏は高峰に挑み続け、2008年にはヒマラヤに向かい、マナスル(8163m)、ダウラギリ(8167m)にも登頂します。
ただし、マナスルについては頂上直下で下山してしまったため、正式には登頂を認定されていません。
栗城氏の資金調達能力の高さ
これだけ立て続けに海外の山に登るとなると、多額の登山費用がかかることになります。
その点、栗城氏は世間の注目を集めてスポンサーから資金を調達する能力に長けていたといえます。お金がないと登山は続けられませんから、登山家として必要な力であることは間違いありません。
栗城氏は、『7大陸最高峰無酸素単独登頂に挑戦する若者』ということを世間にアピールし、さらに登山の模様をインターネットで動画配信する試みによりスポンサーを募ることで、資金を集めることに成功しました。
登山とインターネットを結んだ功績として「ファウスト大賞」を受賞したことも、資金調達の追い風になったことでしょう。
最後の最高峰、エベレストへの挑戦
世間からの認知度を有効に活用し資金を集めた栗城氏は、2009年に7大陸最高峰単独無酸素登頂の実現の為にエベレストに挑戦します。
栗城氏のエベレストへの初めての挑戦はマスコミにも大きく取り上げられており、エベレスト登山の様子はNHKで放映され、Yahooでも特設サイトが開設されたほどでした。
栗城氏は30人以上のスタッフとシェルパを引き連れた大規模な隊を編成してベースキャンプに向かいます。
これほどの登山隊を編成するためには、おそらく1億円以上の費用がかかったことでしょう。
この点から、栗城氏はお金を集めるエンターテイナーとしての才能があったことは間違いないでしょう。ただの無骨な登山家ではこれほど世間の関心を集めることはできませんからね。
大部隊を引き連れエベレストに颯爽と挑んだ栗城氏でしたが、頂上まであと標高1000m以上も残した7750メートル地点にて、エベレスト登頂をあきらめて下山することになります。
数多くのスポンサーから資金を集め、あらゆるメディアから注目された壮大な挑戦は、あまりにもあっけない幕切れとなってしまいました。
栗城氏のエベレスト登頂失敗の経歴
この最初の挑戦の後、栗城氏はエベレストに8回挑戦しますが、その全てにおいて登頂に失敗しています。
2012年には4度目の挑戦で、難ルートと言われる西陵から登頂を試みるも、その途中で重度の凍傷になってしまい9本の指を切断することになります。
しかもこの凍傷になった原因というのが、手袋を外してスマホをいじっていたためという噂もあります。
この噂の真偽は分かりませんが、その時のエベレスト登頂の天候はそれほど悪いわけでもなく、何日間もビバークを強いられたというわけではないので、この凍傷は不運ではなく、栗城氏の実力不足であること間違いなかったのでしょう。
それでもエベレスト登頂をあきらめない栗城氏は、9本の指を失ったというハンデを背負いながらも、エベレスト登頂に向けた挑戦は継続します。
しかしその後は、最も容易と言われているノーマルルートからの登頂を試みるも失敗を繰り返していました。
そして2018年の8回目の挑戦において、エベレスト最難関ルートである南西壁に挑んだ末、滑落により帰らぬ人となってしまいました。
栗城氏が挑んだ「単独無酸素」とは?
ここで、栗城氏が挑んでいた「7大陸最高峰単独無酸素登頂」について解説していきます。
登山において、標高が高くなると空気中の酸素濃度が低くなるため、低酸素によって思考や運動に障害が生じます。これを高度障害といいます。
高度障害は重症化すると死に至ることもあるため、高峰に挑む際には酸素ボンベを携行して、高度障害を避けることが普通です。
これに反して、酸素ボンベを使用せずに高峰に挑むことを無酸素登頂と呼びます。
さらにシェルパや登山ガイドの助けを借りずに、独力で登頂することを単独無酸素登頂と呼びます。
酸素ボンベを使わずに7大陸最高峰に登ろうとする栗城氏の挑戦は、登山に馴染みが無い人からすると物凄いものと感じるかもしれませんが、実は登山家の間ではそこまで大それたこととは認識されていません。
まず7大陸最高峰のうち、酸素ボンベが必要とされている山は世界最高峰のエベレストだけであり、その他の6大陸最高峰を登頂する際に酸素ボンベを使用する登山家はほとんどいないはいないとのことです。
なので7大陸最高峰単独無酸素登頂というのは、実質的にはエベレスト単独無酸素登頂のことだけを指すのです。
栗城氏がどのような意図でこの7大陸最高峰無酸素登頂という言葉を使っていたのかは不明ですが、やはり世間からの注目を集めてスポンサーから資金を引き出すために、あえてキャッチ―なフレーズを使っていたと推測されます。
ちなみにエベレスト無酸素単独登頂は、1980年にラインホルトメスナーによって達成されており、前人未到の挑戦というわけではありません。
ですので、今更エベレストに単独無酸素で登ったといっても、登山の世界では全く注目されるものではありませんでした。
さらに栗城氏は、シェルパが用意したキャンプをこっそりと使っていたという話もあり、本当に「単独」であったのかという点にも疑問符がついているのです。
一般的に、「単独」と呼ばれる登山スタイルにおいては、ベースキャンプ以降では他者の力を一切借りずに、自分だけの力で山頂を目指すことになるため、他人が固定したロープを使用したり、他の人からルートや天候の情報を受けとったり、シェルパに荷物を運んでもらった場合には、「単独」とは見なされません。
また、エベレストのノーマルルートには、常時多くの固定ロープやはしごが設置されているため、このルートをたとえ一人で登ったとしても、本当の意味での単独とは言えないと考えられています。
そのため、エベレストの「単独」登頂に挑戦する登山者は、他に登山者がいない困難なマイナールートから登ることになるのですが、栗城は8回の挑戦のうち4回はノーマルルートから登ろうとしていました。
さらに栗城氏は、エベレスト登山において、シェルパ が設置したロープやテントを使用していたことや、ベースキャンプのスタッフからルートや天気についてアドバイスを受けていたという証言もあります。
そのため栗城氏のエベレスト単独無酸素登頂の挑戦は、記録的な価値はなく、一般的な単独という登山スタイルからはかけ離れたものと認識されることになってしまいました。
最初は栗城氏の挑戦に共感して、純粋に応援してくれていたスポンサーも、徐々に栗城氏への援助を打ち切るようになっていき、世間でも栗城氏の挑戦に対して冷ややか意見が多くなっていきました。
栗城氏の最後のエベレスト挑戦について
栗城は計8回エベレストに挑戦し、その全てで登頂を失敗しています。
そのうち4回は最も容易と言われるネパール側のノーマルルートを選択しているにも関わらず登頂に失敗していることから、そもそも単独無酸素でエベレストを登頂する実力が備わっていなかったと見られています。
そんな栗城氏の最後のエベレスト挑戦は、無謀にも最難関ルートであるエベレスト南西壁からの無酸素単独登頂でした。
しかもこれはあらかじめ公表されていたルートではなく、南西壁に向かう2日前に支援者に向けた動画で発表されたものでした。
もし成功していたら世界初の偉業であり、エベレスト登山の歴史を大きく塗り替えるものでしたが、ノーマルルートさえも登頂できていなかった栗城氏が挑むにはあまりにも荷が重すぎるものであったのは間違いありません。
またエベレスト南西壁を登るためには、大岩壁をクライミングする必要があり、栗城氏は指9本を凍傷で切断していたため、無謀にも程がある挑戦でした。
栗城氏は7140m地点で体調を崩し、深夜に下山しようとするも、その後連絡が途絶え、翌朝に遺体となって発見されました。死因は滑落死であったそうです。
おわりに
ここまで栗城氏のエベレスト挑戦の経歴について紹介してきましたが、いかがでしたでしょうか?
栗城氏自身が、本当にエベレストに登頂できると思っていたのか、それともエベレストに挑戦する自分の姿を見せることに意義があると考えていたのかは、もはや誰にも分かりません。
栗城氏は他の登山家にアドバイスを求めることも少なく、登山家としての力量、知識、経験などあらゆる面において、一流の登山家とは言えない存在であったかもしれんません。
ただ栗城氏には、これまでは一部のストイックな超人達によるニッチな領域と思われ注目されてこなかった登山という世界を、インターネットでの発信やキャッチ―なフレーズによって、スポンサーや世間からの関心を高めてくれたという功績があるのも事実でしょう。
その注目がかえって栗城氏を追い詰めて、無謀なエベレスト挑戦に駆り立ててしまったという側面もあるかもしれません。
ただ栗城氏の姿を見て、少なからず登山の世界を身近に感じた人も増えたことでしょう。
栗城氏への評価は人それぞれであるかと思いますが、登山の世界に新しい風を起こした挑戦者栗城氏のご冥福をお祈りいたします。
本日も拙いブログを読んで頂きありがとうございました!!!Have a nice run!