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トーマス・バッハ氏の経歴を紹介!男爵と呼ばれる男はいかにIOC会長まで上り詰めたのか!?

バッハIOC会長、コロナ後の「オリンピックにおけるeスポーツとの取り組み強化」を促す | EAA!! FPS News(イーエーエー/いえぁ)

オリンピックの開幕まで1か月を切り、もはや『今さら中止にできない』という一番情けないフェーズに突入してしまいました。

 

日本の政治家や組織委員会の無神経な発言が日々ニュースにて報道されていますが、国際オリンピック委員会(IOC)会長のトーマス・バッハ氏の発言も何度か物議をかもしていましたね。

 

『オリンピックという祭典を、そして日本を一体なんだと思っているんだ!!ただの金づるとしてしか見てないんじゃないか!?』と思ってしまうような、利権ファーストな傲慢な言動が目についてしまいますね。

 

ところで、バッハ会長はどのような経歴で今のIOC会長の地位に就いたかご存知でしょうか?敵を知らずに批判することはフェアではないですからね。もしかしたら凄く徳の高い人なのかもしれませんし。

 

ということで今回はIOC会長のトーマス・バッハ氏の経歴について紹介していきます!  

 

 

トーマス・バッハ氏の法律家としての歩み

バッハ氏は1953年12月29日ににドイツのバイエルン州ヴェルツブルクで生まれました。2021年6月現在で67歳になります。

 

両親の元、ゾンネンプラッツ という町で1977年まで暮らしていました。 

 

バッハ氏はこの町のフェンシンググラブに入りスポーツを始めました。

 

このフェンシングクラブはオリンピックや世界選手権・欧州選手権のメダリストを数多く輩出している名門クラブであり、バッハ氏はこのクラブでの経験を通じて心身を鍛えました。

 

1972年にマティアス・グリューネヴァルト・ギムナジウムを卒業しました。ギナジウムとはドイツおよびその近隣諸国の、伝統的な7年制または9年制(10〜19歳)の大学進学を前提とした中等教育機関のことです。

 

その後1973年にヴュルツブルク大学法学部に入学し、法律・政治学を学んびました。

 

そして1979年、25歳の時に第一次国家試験(司法試験)を通過して大学を卒業しました。

 

卒業後は主にドイツ連邦議会での司法研修期間を終えて、1982年(28歳)に第二次国家試験(司法試験)に合格し、翌年博士論文を提出して博士号(法学)を取得しました。

 

その後は自身の弁護士事務所を設立し、アディダスやシーメンスなどの名だたる企業の法務業務に携わり、様々な会社の監査役や役員就任など華々しい弁護士人生を歩んでいきました。

 

2006年5月、ゴルファ・アラブ・ドイツ商工会議所の会長に就任しており、人脈やビジネスマンとしての能力も相当高かったことが伺われます。

 

ここまでで分かるように、バッハ氏は弁護士であり法律畑を進んできた人物なんですね。

 

 

トーマス・バッハ氏のスポーツ選手としての実績

このような法律家としての顔を持つバッハ氏ですが、大学を卒業するまでの20代の間は、フェンシングの選手としても大活躍をしていました。

 

タウバービショーフスハイムのフェンシングクラブに所属し、フルーレの選手として活動した。フルーレとは、フェンシング競技の一種目です。

 

1971年(17歳)には世界ジュニア選手権で銅メダルを獲得し、西ドイツ内でも世界で通用する選手として有望視される存在となると、1973年(19歳)には、フェンシング世界選手権にフルーレ団体で出場し準優勝に貢献しました。

 

そして1976年(22歳)にはモントリオールオリンピックのフェンシングフルーレ団体で西ドイツチームの一員として金メダルを獲得しました。

 

そして翌年1977年に開催された世界選手権でもフルーレ団体で優勝、1978年のドイツ選手権ではフルーレ個人で優勝し、スポーツ選手としての絶頂を極めました。

 

 

トーマス・バッハ氏のスポーツ団体での経歴

そして皆様が一番知っているであろう、バッハ氏のスポーツ団体員としての経歴について見ていきましょう。

 

バッハ氏は早くからスポーツ関連の活動をしており、1975年から1979年までの間、西ドイツ・フェンシング連盟のスポークスマンを務めていました。

 

メダルを獲得するバリバリの現役選手時代からこのような活動をしていたことから意識の高さが伺えます。

 

1981年(27歳)にIOCに新設されたアスリート委員会の委員に就任し、1982年には西ドイツのオリンピック委員会の委員に就任しました。

 

こうしてフェンシングだけでなく、オリンピックというスポーツ界全体に影響を及ぼす存在になっていきます。

 

この時は第二次国家試験(司法試験)の勉強をしていた時期と重なるので、努力を積み重ねる精神力と行動力を持ち合わせていたのでしょう。

 

そして1991年(37歳)の時IOC委員となり、スポーツ仲裁裁判所の控訴部の代表者などの職を経て、1996年(42歳)にはIOCの理事に就任しました。

 

こうしてオリンピック世界の中での地位を築いたバッハ氏は、その後のオリンピック開催地の決定にも大きな影響力を持つようになりました。

 

そして2000年から2004年、2006年から2013年の期間はIOCの副会長を務めました。

 

2006年からの副会長としての在任中には、ドイツ・オリンピック・スポーツ連盟(DOSB)の名誉会長に任命されていました。

 

そして、2013年(59歳)の時にアルゼンチンのブエノスアイレスで行われた第125次IOC総会にて、第9代IOC会長に選出されました。

 

そして2021年現在でも、IOC会長の職を続けているという次第です。

 

 

 

おわりに

トーマス・バッハ氏の華々しい経歴を紹介してきましたが、いかがでしたでしょうか?

 

正直想像していたよりも凄い経歴の持ち主で驚きました。現在の地位は努力で勝ち取ったということが分かります。

 

しかし、その経歴と日本を軽視する利益最優先の発言は関係ありません。酷いものは酷いとはっきり言いたいです。

 

もうオリンピックが開催されることは避けようがないですが、このオリンピックの開催を日本国民の意志など無視して推し進めているのがいかなる人物であるかまずは知っていくことから始めていきましょう。

 

 

本日も拙いブログを読んで頂きありがとうございました!!!Have a nice run!