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MRJ(三菱スペースジェット)が開発凍結。延期の連続による失敗の歴史を解説!

MRJ、「三菱スペースジェット」に改称 70席クラスは「M100」に

 

みなさんはMRJ(三菱リージョナルジェット)をご存知でしょうか。

 

『日本初の国産ジェット旅客機』として、三菱重工業が主体となって開発を進めていた飛行機です。

 

現在では名称は三菱スペースジェットになっていますが、MRJのほうが聞き馴染みがある方が多いと思いますので、以後MRJで統一させて頂きます。

 

このMRJですが、開発がスタートしてから10年以上たち、延期に延期を重ねてきましたが、2020年に入り、ついに開発の一時中断、事実上の開発凍結が報道されました。

 

今回は、そんなMRJ開発の歴史について、その沿革から延期の経緯について解説していきます。 

 

 

 

初の国産ジェット機として開発がスタートしたMRJ

まずはMRJが一体何なんなのかの説明を簡単にします。

 

MRJとは以下の略です。

 

M:三菱

R:リージョナル

J:ジェット

 

開発スタート時では最先端の技術を導入して燃費を大幅に低減し、快適な客室空間を実現した三菱グループが開発しているジェット機のことです。

 

2003年に経済産業省が、30席から50席クラスの小型ジェット機開発案「環境適応型高性能小型航空機」を発表し、開発について機体メーカー3社(三菱重工業、川崎重工業、富士重工業)に提案を求めたことでスタートした官民挙げてのビッグプロジェクトでした。

 

このときに計画案を提出したのは三菱のみで、2003年5月29日に三菱を主契約企業として開発がスタートしました。

 

日本企業が作る旅客機としてはYS-11というプロペラ機以来の約50年ぶりであり、また日本企業が独自で開発する初のジェット旅客機ということで、国内外で大きな注目と期待がかかることとなりました。

 

ちなみにMRJの名前についているリージョナルジェットとは、「50席から100席クラスで航空距離の短いジェット機」のことであり、1990年代以降世界的な主流になっていました。

 

三菱もこのコンパクトかつ経済的なジェット機開発の潮流に乗ったということです。

 

この頃のトピック

 

2003年4月7日

経済産業省はプロジェクトの窓口となる新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)においてメーカーを招いての説明会を実施


2004年10月1日

三菱は「環境適応型高性能小型航空機」の名前で、座席配列を左右4列としたキャビン・モックアップを展示


2005年5月1日:第46回パリ国際航空ショーで、三菱はこれまでの計画案と縮小モデルを Next Generation RJ として展示

 

2007年10月9日

菱重工業株式会社(MHI)は、次世代のリージョナル航空機である三菱リージョナルジェット(MRJ)を、世界中の潜在的な顧客航空会社に販売することを正式に開始することを決定

 

2008年2月12日

三菱重工業株式会社(MHI)は、3つの主要な国際航空業界団体(欧州地域航空協会(ERA)、米国地域航空協会(RAA)、国際航空運送協会(IATA))に参加 

 

 

三菱航空機(株)を設立しMRJ開発を事業化

三菱重工業は着々と開発準備を進めていきます。

 

2008年2月14日には、MRJの主要システムを提供するパートナーサプライヤーとして5社を選択しました。

 

・パーカーエアロスペース:油圧システム


・ハミルトンサンドストランドコーポレーション:電力システム、空気管理システム、補助動力装置、不活性ガスシステム、高揚力作動システム、および火災および過熱保護システム


・ロックウェルコリンズ:飛行制御システム


・ナブテスコ株式会社:飛行制御システム

 

・住友精密工業株式会社:着陸装置

 

この時点ですでに純国産では無くなっているような気もしますね。

 

そして2008年3月27日にはANAより25機(仮発注10機を含む)の購入が発表されました。

 

販売先も決まったことで、2008年3月28日MRJの発売を正式に発表しました。

 

さらに2008年4月1日にMRJの開発を行う専門事業者として、100パーセント子会社の三菱航空機㈱を設立、2008年10月16日には米国販売会社も設立し、MRJの開発と拡販活動は加速していくこととなります。

 

ちなみに2008年9月時点では2011年初飛行、2013年に納入を予定していました。また開発費は1500億円程度と見積もられていました。

 

 

難航し延期が連続するMRJ開発

三菱航空機を設立し、格的な開発の軌道に乗ったMRJですが、2009年9月に、胴体と主翼の設計変更にともない、初飛行を2012年第2四半期に、初号機納入を2014年第1四半期に見直すことになりました。(1度目の納期延期)

  

2012年4月には、開発並びに製造作業の進捗の遅れから試験機初飛行を2013年度第3四半期に、量産初号機納入を2015年度半ば〜後半に延期になりました。(2度目の納期延期)

 

さらに2013年8月には安全性の担保するプロセス構築に時間がかかるとし、試験機初飛行予定を2015年第2四半期に、初号機納入予定を2017年第2四半期に延期を発表しました。(3度目の納期延期)

 

たびかさなる延期の発表はありましたが、開発もなんとか進み2014年10月18日に MRJのロールアウト(完成披露)式典が開かれたのでした。

 

ただこれは機体が一応の完成を見せたというだけであり、販売可能な状態になったわけではありません。

 

ここから機器系統の試験、安全性確認試験、地上走行試験を実施していく必要があります。

 

それを踏まえ初飛行は2015年4-6月期、型式証明の取得は2017年上期を予定していました。

 

そしてANAへの初号機引き渡しは、2017年4-6月期となる見通しでした。

 

また2015年1月18日には日本航空(JAL)とも正式契約を締結し、MRJ32機を2021年に納入開始する予定でした。

 

 

初飛行試験後も暗雲立ち込めるMRJ開発

2015年11月11日、県営名古屋空港においてMRJの初飛行試験がを行われました。その後19日に2回目、27日に3回の飛行を実施しました。

 

しかしこの試験結果の影響なのか、試験工程から量産初号機の納入時期に至るまでの全体スケジュールを精査し、納入延期の方針となり、2015年12月には量産初号機の納入時期を2017年第2四半期から1年程度先に変更すると発表されました。(4度目の納期延期)

 

当初1500億円程度と見積もられていた開発費も、2016年初頭の時点で3300億円にまで膨らむ見通しになったと報道されました。

 

そうした中でも、新たに受注は獲得しており、2016年8月時点で通算受注機数は確定受注233機、オプション170機、購入権24機、受注機数は427機となっていました。

 

まだ顧客もMRJがきちんと完成することを疑っていなかったと思われます。

 

2016年内は試験機2号、3号、4号の初飛行も完了し、開発は遅ればせながらも前に進んでいるように思われました。

 

しかし2017年1月20日に、機体を制御する電子機器の配置を見直しするなど設計変更が必要であることが判明し、航空会社への納入開始予定が2018年半ばから2020年半ばへと2年間延期されました。(5度目の納期延期)

 

これをうけ2017年2月25日には、MRJの量産計画が縮小されることが判明しました。

 

 

MRJ開発の終焉へ

このような開発の遅れをうけて、2018年1月26日には、イースタン航空との間でMRJの契約がキャンセルされる事態になりました。

 

これは正式契約後としては初のキャンセルとなり、MRJの開発が切羽詰まった状況であることが顧客側にも認識されたことが明らかになったのです。

 

また度重なる開発延期により資金繰りも厳しい局面を迎えており、2018年12月7日には三菱重工業から三菱航空機に対して2200億円の資金支援が実施されました。

 

2019年6月14日には、三菱航空機はイメージ改善のためなのか分かりませんが、MRJの名称をMitsubishi SpaceJet(三菱スペースジェット)に改称しました。

 

しかしそんな小手先のことをしても開発状況が改善されるわけもなく、2020年2月6日には、試験の遅延により納入時期を2021年以降へ延期を発表されました。(6度目の納期延期)

 

この時点で開発費総額は8000億円近くで、事業化総額は1兆円を超える見通しとなり、開発費を回収するためには1500機程度の販売が必要となりました。

 

しかしトランス・ステーツ・ホールディングス(TSH)との販売契約が解消されるなどもあり、受注残高は300機程度となり、すでに事業としても立ち行かない状況に陥っていきました。

 

また2020年は新型コロナウイルスの感染拡大により、試験飛行の中断や、航空業界の低迷が露わとなり、ついに2020年5月22日には、三菱航空機はスペースジェットの開発態勢を大幅に縮小すると発表しました。

 

そして2020年10月30日には、三菱重工業は2021年度から2023年度までの3ヵ年にわたる中期経営計画を発表し、停滞する開発状況と悪化する市場環境を踏まえ、スペースジェットの開発活動をいったん立ち止まることを発表しました。

 

この間に再開のための事業環境の整備に取り組むとは述べておりますが、事実上の開発凍結とみられています。

 

こうして2000年初頭から始まった日本初の国産ジェット旅客機開発の夢は、一幕の終焉を迎えたのでした。

 

開発延期の歴史

 

・2008年9月(事業化開始時)

2011年に初飛行、2013年に納入を予定

 

・2009年9月(1度目の納期延期)

胴体と主翼の設計変更にともない、初飛行を2012年第2四半期に、初号機納入を2014年第1四半期に見直す。

  

・2012年4月(2度目の納期延期)

開発並びに製造作業の進捗の遅れから、試験機初飛行を2013年度第3四半期に、量産初号機納入を2015年度半ば〜後半に延期する。

 

・2013年8月(3度目の納期延期)

安全性の担保するプロセス構築に時間がかかるとし、試験機初飛行予定を2015年第2四半期に、初号機納入予定を2017年第2四半期に延期を発表する。

 

・2015年12月(4度目の納期延期)

試験工程から量産初号機の納入時期に至るまでの全体スケジュールを精査し、納入延期の方針となり、量産初号機の納入時期を2017年第2四半期から1年程度先に変更すると発表する。

 

・2017年1月20日(5度目の納期延期)

機体を制御する電子機器の配置を見直しするなど設計変更が必要であることが判明し、航空会社への納入開始予定が2018年半ばから2020年半ばへと2年間延期されました。

 

・2020年2月6日(6度目の納期延期)

試験の遅延により納入時期を2021年以降へ延期を発表する。

 

・2020年10月30日(事実上の開発凍結)

 

三菱重工業は2021年度から2023年度までの3ヵ年にわたる中期経営計画を発表し、停滞する開発状況と悪化する市場環境を踏まえ、スペースジェットの開発活動をいったん立ち止まることを発表する。 

 

 

MRJの前に立ち塞がった『型式証明』とは?

MRJの開発が難航してしまった大きな原因に「型式証明」が取得できなかったことで、「耐空証明」が取得できなかったことがあります。

 

耐空証明とは「この飛行機は空を飛んでいい」という当局のお墨付きのことであり、この耐空証明がなければ飛行機は基本的に空を飛ぶことができません。

 

日本の航空機の場合、国土交通省が耐空証明を発行します。

 

ちなみに試験飛行の際は、まだ耐空証明を取得していなくても国土交通大臣の許可を受ければ飛ぶことが可能です。

 

MRJの場合も試験飛行はしてますが、あくまでそれは一時的な許可であり、正式に認証を得てはいないのです。

 

ただこの耐空証明の取得のプロセスはとても複雑かつ行程が膨大なので、製造した飛行機で1機ずつ検査を実施しようとしたらかなりのな時間と手間が必要となってしまいます。

 

そこで「型式証明(Type Certificate)」という制度があります。

 

これは同じ型式の飛行機ならば設計や製造の根幹部分は同じであるので、耐空証明の大部分を省略し、どうしても個別に見なければいけない部分だけに検査を絞ることができる仕組みです。

  

この仕組みによって飛行機の量産が可能となっています。

 

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また、2ヶ国間による「相互承認協定」を結んでいる場合、輸出元の国で型式証明が取得できていれば、輸出先での検査は省略される制度があります。

 

現在日本が相互承認協定を結んでいるのは米国、欧州、カナダ、ブラジルですので、日本で型式証明を取得できれば、上記の4か国では型式証明を二重でとるという手続きを省くことができ、耐空証明をとるプロセスが簡略化されます。

 

しかしこの型式証明を取得するのがとんでもなく難しいのです。

 

この型式証明の検査には明確に数値化できないものが設計基準に入っていることがあり、技術者のノウハウの蓄積とか、検査突破のコツとかを知っている人がいないと取得が難しいと言われています。

 

また検査に不合格だった時に、どこがダメで不合格なのかという詳細なレビューをもらえないという仕組みでした。

 

つまりは完全に初見殺しな制度なわけです。

 

MRJが日本初の国産ジェット機と言っているように、三菱航空機には型式証明取得のためのノウハウの蓄積も、コツを知っている技術者もいません。

 

そのため型式証明の取得でMRJは弾かれ続けることとなります。

 

開発途中でようやく海外の「型式証明」取得に携わった経験のある技術者を招き入れるようにしましたが、そうなると当初の根本の設計から見直す必要が出てくるため、それが開発の延期に延期を重ねる結果を招いたといえます。

 

開発のスタートからこのような技術者をチームに加えていたら、もっとスムーズに型式証明取得までこぎ着けていたかもしれませんね。

 

 

 まとめ

いかがでしたでしょうか。天下の三菱が主体となって開発していた飛行機が道半ばで頓挫してしまった事実は、日本の技術力の陰りを象徴しているのかもしれません。

 

コロナが落ち着いた後に開発が再開されるかは分かりませんが、もう一度日本の底力を結集して、日の丸飛行機が世界の空を飛ぶ日が来ることを切に祈っています。

 

 

本日も拙いブログを読んで頂きありがとうございました!!!Have a nice run!